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「バンドの最初だったオリジナル曲」

2021/05/11 15:00

 このバンドを前身から考えると、ボーカルを担当する娘の美妃が生まれる前から細々と続けているバンドなんです。

 そしてすべてはこの曲からはじまったのでした。
 グッバイメンフィスという曲ですが、このバンドの最初のオリジナル曲です。

 1987年に作りましたが、2016年のライブでほぼ1987年当時のままのアレンジで演奏しています。
  ↓(インスタグラムに載せたムービーです)

https://www.instagram.com/tv/COsjHjkJxoO/?igshid=6ljd99vv42x3


 曲はきちんと自分で作ったのですが、歌詞は苦手だったので解散したKenmi MissTonesのボーカリスト(メイベリン・レッドショックのボーカリストだった)宮崎謙実に書いてもらいました。
 歌詞の内容は、キャサリンが誰だかわかりませんが(笑)、その頃のぼくの心境を思って作ってくれた歌詞だと思います。
 Kenmi MissTones解散後はなんとなくガッカリして、個人的にギタリストになりたいとは思っておらずにロックバンドで演奏したいと思っていたため、また、腱鞘炎が酷くなったりもしたのでギターの単発の仕事を受けなくなってしまい、長かったバンドマンとアルバイトの生活を終えてサラリーマンになり、地元のブルースバンドでギターを弾くだけになっていました。
 そのブルースバンド、最初はオリジナル志向のロックバンド型のブルースバンドだったのですが、だんだんに単なる黒人ブルース・ソウルのコピーバンドにシフトしていってしまい、音楽がどういうジャンルの音楽であったとしても、オリジナル曲中心、有名曲等はコピーはせずに自分たちのバンド風にリメイクする・・・というスタイルの自分のポリシーとは離れていってしまったため脱退し、もう音楽活動はやめようかと思っていた1986年頃・・・。
半年後くらいだったでしょうか・・・、同じブルースバンドに居たベースの村上が、ぼくが辞めた直後にバンドを辞めたと聞き、連絡をとりました。
 最初の話題は音楽のことではなく、お互いにクルマを買い替えたという噂を聞いたため、そのクルマが何なのか気になってお互いのクルマが何かを聞きたかったのです。
 そして、お互いに同じオースティン・ローバーのミニという同じクルマを買っていたという偶然にビックリし(村上は黒に白い屋根のツートーン、ぼくが赤に白い屋根のツートーン、どちらもオースチン時代のマークⅡ仕様)、今度一緒に走ろうぜとか話しながらもまた一緒にバンドをやろうという事になり、ギターとキーボード担当の片渕、ドラムの西野とともに1987年に"Wonder Boys"を結成しました。(まあ、1989年に1度目の解散をしちゃうんですけどね・・・。)
 まさにその時のぼくの心境としては、グッバンメンフィスの歌詞のとおりで、「さよならメンフィス(ブルースやソウル)、いろいろなしがらみを捨てて西へ向かう(西海岸ロックの方向へ舵を切る)。自分の道を歩むよ。(オリジナル志向だよ。)」という感じです。
 で、いいゴロだから入って来るのか、キャサリンですが(笑)、仕方がないので村上の二人目のカミさんだった娘が、村上の自転車(ママチャリ)の名前をキャサリンにしていました・・・(笑)。

 1988年にレコードを作った直後にドラム西野と村上が脱退し、1989年にバンドを解散し、1990年にはぼくはバンドどころか楽器をほぼ処分して残したギター2台も天井にしまいこみ、その後3年間はまったくギターも触らず、音楽を聴くことすら辞め、以後はこどものために立派なサラリーマンになる努力をちょっとだけしました。
 
 友人の鈴木くんの結婚式で"Kenmi MissTones"時代のメンバー・ギター岡澤敏夫氏(当時は柳ジョージのバンドのギタリスト)とドラム鎌田浩氏(当時は加瀬邦彦さんのお店や南こうせつとかで叩いていたと思う)に誘われてギターを弾く事になったのですが、3年のブランクは酷くて指先も柔らかくなってしまい、本当にギター弾いてた人でしたっけ・・・という、周囲の人が青くなるくらいギターが弾けない状況でした。。。
 ベースの人は一時期クリエーションに居た人でした。アイ高野さんがクリエーションでドラム叩いていた頃の方かな・・・。
 そういった面々に比べるとぼくは落ちこぼれもいいところですが、それ以上に、ビギナーに戻った状態でした。
 たった1回のリハーサルの予定が、あまりにもぼくの出来が酷いので次の週にもリハーサルをやることになり、その1週間は猛烈にギターを練習しました。たぶん、平日ですが1日5~6時間は弾き続けたと思います。やぶれた指先から血がでるのをセメダインで指をかためて弾き続けました。なんとなく、夢中になって弾いていた中学時代を思い出しながら・・・。

 それでなんとか結婚式での演奏は無事に終わったのですが、その時は「ああ、大役が果たせて良かった」で終わっていたのです。
 しかし、まるで音楽に興味をなくしていた自分が、ふと画廊の前を通った時に1枚の油絵に心が吸い込まれてしまったのです。その絵は大木に開いた穴から見える泉の景色だったのですが、なぜか頭の中にストーリーが浮かんでしまいました。
 いや、今考えると単に「現実逃避願望」だったのかもしれません。ぼくには一生懸命サラリーマンの仕事をする・・・という行為は自分ではない他人同様の普通な自分を演じているような・・・どうにも心をなくしたような感情にやられていたような気がします。

 1993年の終わり頃にバンドの実態もなく、ライブはやらずに一人一人のメンバーとぼくが会って、録音だけの活動をしようと考えました。
 今考えると不思議な録音方法ですが、ギターのバッキングと借歌を録ってそれにあわせてドラム・ベースと録音をすすめ、最初のギターのバッキングは消してキーボードやギターを録音し、歌も最後に録音しなおす・・・といったやりかたです。
 そして、アメリカ西海岸風のオリジナルとはまったく違った、何も音楽ジャンルを意図しない「ただのロック」を音楽性として、表すべきはストーリーと考え、思いついたストーリーを音楽にしていく組曲を1アルバムにまとめていく方向へと変化していきました。

 その後は2度目の解散もあったし、バンドを諦めて民族楽器のユニット化したこともありましたが、組曲という方向性だけは続けてきました。

 今考えてみると、1970年代のぼくは「ギターで目立ちたい」が一番だったかもしれません。1980年代のぼくは「曲のアレンジを熟知したギターを弾きたい」だったかな。。。1990年代では「バンドという勢いの中でギターを弾きたい」・・・という一番自分の気持ちに素直にやっていたかもしれません。
 2000年前半は「高度な音楽性」にこだわり、逆に2005年に美妃がバンド加入してからは「娘の成長日記のようなバンド活動」としていましたが、2010年以降はドラマー脱退後にメンバー募集をやめてから「日記は卒業し、組曲ロックの完成点に向かうもの」とイメージしているかもしれません。

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