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「確実に退化している自分だけれど・・・」

2020/09/25 00:00

 つくづく歳をとってプレイが退化したなぁ。。。と、先日のTwitterでのテスト配信の際に思いました。
 ちょっと目にライトの光が入ってしまい、一瞬、フレットボードが見えなくなってミストーンを出したのですが、以前だったらその1秒後には次の音から立ちなおせたものが、2小節(5音)に渡って元に戻すことができずに音を探ってしまいました。探っているうちにフレーズ忘れちゃうし・・・(笑)。

 要は、次のフレーズの頭まで来ないと戻すことが出来なくなっている。。。なんと脳味噌の回転が遅くなっていることか。。。退化しているなとしっかり自覚する瞬間でした。

 次のミスは目的の音を行き過ぎてベンド(スライド)してしまうというもので、単純に目的の位置で止まらなかったのですが、こういうミスは音程を下げるベンド(スライド)では以前からも若干あったものの、上げるベンド(スライド)では今までミスしたことはほぼ無かったと思うので、耳で聴きながらプレイする事が厳しく、フレットをしっかり覗き込みながらプレイしないとミスを連発する可能性が多くなって来たということかと思います。

 1ケ月間ミディアムスケールのギターばかり弾いていたので、ロングスケールのギターへの持ち替えで対応できていないというところも少しはあるのかもしれませんが、それとてすぐに対応できなくなったのは加齢による退化の影響あり・・・と言われても仕方ないわけで・・・。

 また、昔だったら絶対にこんなミスは無かったというミスも多くなりました。たとえば、薬指でプリングオフした時に残して抑えてた人指し指が勢い余ってプリングした時に外れてしまって解放の音を出してしまったり、ギターを持ちかえた際に空振りが多くなる等です。
 もともとぼくはピックの形状や硬さなど、ギター1台ごとに弾きやすいものや、好みの音色の出やすさから、「ロングスケールで弦の張力弱めなギター」「ロングスケールで弦の張力強めなギター」「ミディアムスケールのギター」等の大枠でピックの種類を使い分けているくらい神経質なのですが、何れもティアドロップのミディアム内での選択です。

 しかし、最近はピックを落としたり、先端が弦に当たらずに空振りしたりする事が多くなりました。
 もっと先端が長くて尖ったピックにしないと老化に対応できないのかな・・・。

 練習嫌いなぼくですから練習不足ということはあると思いますが、いや、あと何年まともにギターが弾けるのか、やや不安に感じて来ました。
 譜面が読めない自分は、指型としてオクターブや5度・3度の位置やらで音程を覚えているので、感覚が鈍くなって来てひとつ音を間違えると、どれだけの位置がズレたのかを計算するのが明らかに譜面とフレットが直結している方の方が立て直ししやすいわけで、感覚だけで弾いて来たぼくのような者は衰退もはやいのかもしれませんね。。。

 ミストーンは一発出してもすぐにフレーズを立て直せるからいい・・・それよりもダイナミックにギターを弾くことが大事だと考えて来たのがぼくのスタイルなので、フレーズを立て直せなくなって来るとかなりヤバいです・・・。

 決めたフレーズをきちっと弾くプレイは忘れちゃったりするし、そのうち、気分のままにダラダラと弾くプレイをするしかなくなって来るのかな・・・。
 そうすると、今のオリジナル曲やバンドは出来なくなり、3コードばかりのセッション的なブルースロックバンドになっちゃうかな・・・。

 あきらかな退化をしながらギターを弾いていって今後、自分になんの価値や意義があるのだろうか・・・。そんなことも考えてしまう今日このごろですが、(さて、やっとここで写真の意味が・・・(笑))、家から1.2kmくらいの場所、横浜市営地下鉄片倉町駅から三ツ沢方向に向かって数百メートル行ったところに「ポパイ」というカレーと喫茶(たぶん夜はBar)の小さなお店がありまして、そこのカレーは、なんとも昔を思い出させてくれるカレーで、ぼくの小さな頃はカレーはインド料理のマサラでもなく、パキスタン料理でもインドネシア料理でもタイ料理でもアフリカ料理でもなくて、日本料理な蕎麦屋のカレーと洋食なレストランのカレーしかなかった頃の「洋食なレストランのカレー」なんです。

 本来の料理というか、本物の本国風がいろいろと食べられる時代になり、なんとなく無くなっていく文化があります。
 良い意味での西洋かぶれな和風のハイカラさが残る洋食屋さんとか、今風のカフェとかいうものではない純喫茶とか、欧風まんじゅうとか・・・、なんというか、日本人ならではの西洋への憧れと日本をミックスしたような不思議な和洋折衷や○○かぶれのような尖ったこだわりとか・・・、そういうものがぼくは子どものころから好きでした。
 英国で走っている英国車より、日本の街並みを走る英国車が素敵に見えたし、東京に住んでいた頃はキッチン南海の串カツカレーが大好きでした。
 六角橋商店街で好きだった店は、マスターがいかにマテウスロゼが食中酒として優れているかの講釈をたれていた今は無きキッチンベル。六角橋にはキッチンベル・キッチンスワン・キッチン友と3店の洋食屋さんがありましたが、ぼくはベルが一番好みでした。(今ではキッチン友しか残っていません・・・。)

 「ポパイ」のビーフカレーは600円でケーキも付きますが、マスターは昔は広尾でお店をやっていたそうで、やや寂しい片倉町にお店を移してからは値上げを一切していないそうです。

 勝手にイメージでお話を作ってしまうとすれば・・・、とってもジェントルなマスターのイメージと西洋料理的な昔風な美味しいカレー(特にベースとなっているビーフカレー)から勝手に自分の頭がはじきだしたストーリーは、高級ホテルでシェフとして働いていたマスターが居心地の良い空間と無くなりつつある昭和中期の美味しさを現代に残したタイムマシン空間・・・というイメージです。

 専門店がその国風に本格的になっていくと同時に、想像の世界だった憧れの洋食文化のようなものは消滅していくのかな・・・。でも、ぼくは本格的専門店が自分の「美味しい」のルーツではなく、街の洋食屋さんの「美味しい」がぼくの「美味しい」のルーツだった・・・。

 それは本物が素晴らしい事を否定しているのではなく、逆にその美味しさを知ったからこそ、自分の居場所から見た想像の憧れた世界を生みだしている個性的な「日本の洋食」が好きだということで、双方が好きだから感じられるものだと思います。
 そして、そのうちの「日本の洋食」は、外国人にはわかりづらい日本人の感性が創り上げる魅力なのです。

 そんな事を考えるうち、「正確・的確なギタープレイ」「印象に残るギタープレイ」等々・・・ダイナミックな魅力タップリのギターが弾きたいと思って来ました。
 しかし、ずっと自分にとって自分らしいスタイルとは何か・・・を気にして来たつもりだったのですが、それを技術的だったり、ロックの醍醐味でもあるカッコ良さに求めていたのだろうと思います。

 要は、自分の方側から考えつつも、本格専門店の魅力ばかりを見て答えを探そうとしていたのではないか・・・と。けれども、あのカレーのように憧れでつくる美味しさが答えだったとすると、ぼくの場合はまったく技術という方向に答えはなく、やはり夢見ることが音楽の醍醐味だったと思います。その夢はとってもシンプルで、ぼくがニコニコしながらギターを弾けて、お客様も楽しそうにニコニコしている・・・ただそれだけです。
 言い方をかえれば、必要とされなくなってもいいけど、ニコニコできる空間をつくる努力を続けるっていうところでしょうか。。。

 そんなところで、「あいつも下手になったなぁ(笑)」と言われても落ち込まずに、それでも一緒に楽しめる演奏を目指すことにします。

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