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「理解できない『良いミュージシャンは良いリスナー』」

2021/10/28 00:00

 考えさせられる事があります。
 良く言われる「良い音楽家(プレイヤー)は、良い音楽リスナー」という話…。
 ぼくは1989年まではいろいろな音楽を積極的に聴いていたとは思いますが(特に1960~1970年代前半の洋楽)、1990年に一旦、音楽をやるのも聞くのも辞めてからは全く聞かず、1993年の終わりに音楽を再度はじめた時は、音楽ではない絵画や童話のようなストーリーの魅力を自分が音楽という手段で構築していくことを命題とし、ほとんど音楽から音楽の影響を受けなくなり、人様の音楽や現代流行っていたり、その時期にいわゆる通のギタリストが夢中になっているギタリストや音楽も、全く聴くことがなくなりました。

 今も聴いているのは、クルマの中でサムクックとサム&デイブ、ほんのたまにストーンズ、バッドフィンガー、スレイド、ラズベリーズ、カーペンターズくらいかもしれません。

 なんというべきか、ぼくについては、音楽をプレイする事が他人様のように音楽という礎の上にあるものではなくなり、絵画や物語から得たインスピレーションを、自分は絵も描けないのでなんとなく頭に浮かぶものを音楽化する…という作業であり、それは、ライブでお客様と自分たちの空間に絵のようなものを音で描きたい…という目的のために行っている行為のつもりです。

 以上のように、「良い音楽家は良い音楽リスナー…」という事を考えると、残念ですが明らかに自分は悪いコンポーザー・ギタリスト・バンドマンであると言えます。

 ロックの黎明期には、アルバムのジャケット等もあり、絵画等がロックと結び付いていた時代がありましたし、他の芸術や、思想や政治にも踏み込むものも多数あったと感じていました。
 「音楽は単純に楽しむもので政治や思想などを持ち込むべきでない」という現代のエンタメオンリーな、アーティスト的な部分を捨てた巨大営業楽器プレイヤーを正しい方向性と感じさせる現代の音楽にはあまり興味が持てません。
 もともと楽器や音楽に目覚めたのが遅めだったぼくは、たぶん、ギタリストの云々とか、音楽ジャンルのどうこうとか、あまり関係なく、歪んだ音のギターとそういった他芸術とのコラボレーションに魅力を感じていたようにすら感じています。

 音楽を音楽だけで存在するものと思っていないし、単なるエンタメだとも感じていない…。音楽は何か自分の中でしっくり来ない気持ちだったり、共有したいと感じる気持ちだったり、わからない感動だったりを表現する手段のひとつであり、他の表現方法を持っていないので音楽でそれをし続けているのが自分だと思います。

 また、もし自分が良いリスナーであって心底心酔する音楽やプレイに夢中ならば、そのプレイに満足して自分では音楽をやろうとは思わず、ただただ聴き手で満足していたのではないかと思います。
 自分が自分の気持ちとしてコピーでない自分自身の表現に納得し、それが他人様にお聴きいただける…それを目指して音楽をやる上で、特に良いリスナーである必要は大きく感じていません。

 それよりも、自分自身が何を好み、なぜそれを好むのか等の、自分の知らない自分の好みや傾向に興味があるので、好んだ絵画と自身の音楽の類似性とかの方が気にかかる問題になってます。
 自分探しの旅が人生だとしたのなら、音楽に人生を投じているのであり、それが特に「ダメな音楽家」のバロメーターにはならないのではないだろうか・・・と思っています。
 もしかしたら、「芸能家としての流行サーチ能力」を考えてのバロメーターがソレだったとすれば多少は理解できますが、「芸能家としての成功者=優れた音楽家」には疑問を感じているし、もっとそれぞれの音楽に個性があった時代の音楽の方に魅力を感じていたので、模倣と研究よりも自分らしさに拘るPOPSを、個性が常道を打ち破る新しい観点のPOPS構築を各々が目指すべきだ・・・とすら逆に感じています。

 結局、「良い音楽家(プレイヤー)は、良い音楽リスナー」の定説を理解できないままです。

 そう考えていると、二つ目の問題が頭をかすめます。
「何のために音楽をやっているのか、その目的は?」という問題です。

 楽器を抱えた成功者とは、確かにそれで実際に生計をたてているプレイヤーになったり、コンポーザーとしてヒット曲を送り出している人なのかもしれません。
 でも、いわゆる「売れるため」に音楽をやっているということに、その目的は何なんでしょう・・・。他の仕事をしないですむよう生計をたてるため? とりあえず、楽器を弾いて名誉を得られるため?
 だとしたら、ぼくはそれを自身の最終的な目的だとは感じられないのです・・・。
 確かに誰かに伝えたい・・・聴いていただきたい・・・という強い気持ちがありますが、自分が納得できる音楽がやりたいので(そうでないと自身のプレイに自信が持てなかった)、本意でないプレイも要求されたり、とても納得できない内容の音楽をプレイすることは自分には対応も出来ず当惑するだけで、ギターの仕事を継続していく事は出来ませんでした。単にワガママなのかもしれませんし、技術不足が起こした結果かもしれませんが、職務にすることが出来たら・・・というのはあわよくば他の仕事をしないで済むという程度の条件であり、目的ではなかったと思います。
 中学生の頃、勉強もできず、スポーツを頑張る気にもなれず、目立たずに居るか居ないかもわからないつまらない人間に光を当ててくれたエレキギターを通じた音楽というものに感謝しているし、その後の人生において、それ以外に自分が気持ちを表現できる手段がなくなったとも言えると思います。
 逆に言えば、言葉にするとはにかんで内容を変えてしまったり、本当のことが言えなかったりする時に、笑ってしまうくらい現実味のない理想を思っている気持ちとか、年寄りでも見続ける夢とか、どうしようもない気持ちとか、たまには幸せの瞬間とか、言葉では伝わらない感情を伝えたかったり・・・、要は「自分自身が生きているというアピール、自分には何が出来るのか・・・自分は何者なのかのディスカバー自分、ひとりぼっちで生きているわけじゃないんだという気持ちを共有、お客様とプレイヤーの間にある空間を双方から素晴らしいものにしていく共同作業」それをしたいというのが目的だと考えています。
 なんとなく思っている気持ちとして・・・、目的は結果ではない・・・と感じています。
 そりゃあ、見返りという結果を言えば好評価を受けたいし、お金も稼げたら嬉しいですから、結果として望むことは同じでしょ・・・とも言えると思いますが、すでにそれは挫折しているので残念ながらぼくには関係のない問題になっているだろうなと思います。

 なんとなく自分が思っていることは、人が一方的につくるものではお客様もプレイヤーもお互いに感動できないのではないか・・・ということ、双方から空間に創り上げていくことではじめて感動が得られると信じています。
 究極2つの言葉に要約できるかもしれません。「自分捜し」と「感動」だと思います。

 じゃあそのために一生懸命やることは何なのか・・・というと、なんというか、虫のようになるというか、単細胞生物の感情になるというか、ただただ言葉にもならない感情を空間に送り出す作業を無心になって行う・・・ということかと思います。
 おおよそ社会性とはかけ離れたところに自分の目的を持っていて、それは、どちらかというと現世的な娯楽性のあるものではなく、魂の会話とか解放とか・・・そっちの方につなげたいもののように感じています。(実際のところ、よくわからない。)

 究極の話、最初の定義だった「良いリスナー」とは何なのかも、それぞれ違っているのではないかと感じて来ました。
 トレンドや技術サンプル取得のためのリスニングや、音楽ジャンル間の把握など…いわゆる模倣サンプルの取得のためのリスニング。
 ただ好きと感じる音楽を探してむさぼり尽くし、その中から自分の好みとは何なのかを知ろうとするリスニング。
 いろいろなリスナーがいると思いつつ、ぼくの大切に考えたいリスナー像は違っています。

 ぼくの定義では、プレイヤーに期待してくださり、その期待でプレイヤー側からの音楽を素晴らしいものに変えていく、「ただの音を音楽に変える力を持った創造者」だと思っています。
 そういう意味では、「良い音楽家は良いリスナー」は、「良いリスナーが音を音楽に仕上げている」と考えているので、「逆もまた真なり」であれば自分なりに理解した気持ちになりました。

 一応、この自問自答はこれでいいかな…。

 

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