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ゴスペル

2019/08/13 00:00

 下の娘がコーラス団体に加入して、先日、発表会があったので見に行ったところ、ゴスペル団体同士の大集会的なライブでした。

 下の娘の団体も、前にビデオで見せてくれていたものに比べると良くなっていたと思います。
 娘もほんのちょっとだけソロパートを歌わせてもらっていました。ダイアナロスの歌った曲でしたが、本人はわかっていなかったようです(笑)。

 不思議だったのは、様々な団体が3曲づつ程度歌う際、プロテストソングはゴスペルですから当たり前で3曲中2曲(または2曲中1曲)はそのような選曲をする中、なぜか一般曲から歌うものがダイアナロスの比率が高くて驚き・・・。
 神様的なイメージが強い"If We Hold On Together"ばかりならわかるのですが、そうでない曲も多く取り上げられているのはとても不思議に思いました。

 それから、たぶんちゃんとしたクリスチャンの団体と思われる方々が使っている演奏のオケのクウォリティーの高さにもビックリ。
 絶対に日本人ではない、たぶんアメリカの超一流スタジオミュージシャンによる演奏であろうと思われるアレンジされたプロテストソングの数々・・・。
 映画「天使にラブソングを」で使われたものは出回っているのでわかりますが、それ以外のもののクウォリティーがもの凄いのは、もしかしてアメリカの教会の多くでは普通にこのようなオケを使っているからなのでしょうか・・・。恐ろしく凄い演奏です。

 演目によっては、まるでブルースブラザーズの映画を見ているのかと思うほどリアルな南部黒人のメソジスト教会?と思えるような迫力バリバリソウルフルなライブが行われていました。
 まぁ、こりゃあコーラスではありません・・・。
 完全に「キリスト教会内での超ソウルミサ」でした。
 まず、一般的には間違いなくそのような感じが「凄いね」っていう感じで素晴らしいと感じちゃうんだと思いますが、ぼくも確かに凄いなぁとは思いましたが、あの声がサムムーアの声だったらもっといいな・・・とか思えて来てしまうのです。すばらしい情熱的なステージングも良いのですが、ぼくの好みというか感動ポイントは違うところにあったようです。
 何がホンモノなのか・・・に対する個人の感覚の違いかもしれません。

 ぼくが素晴らしいなと思ったのは、歌唱力もステージングも優れた団体よりはずっと劣った人も居るであろう団体でした。
 だれか一人がもの凄いのでもなく、必死にお客さんにアピールするスタイルでもないのです。
 ただ、彼女ら・彼氏らの目線と差し出した手の指先は、指揮者の後方に集中し、それは楽しそうに喜びを体いっぱいで表現していました。
 あきらかに彼女ら・彼氏らの目線にあったところに居る方はイエスキリストであることがしっかりと感じられるものでした。

 どんなに素晴らしい歌も、聴衆を引き付ける人間的魅力も、いえ、世界最高の音楽であったとしてもなお、最高のゴルペルにはなり得ないわけで、ゴスペルが神の言葉や讃美歌の意味である以上、神の存在と愛を確かに伝えるものを感動とするものが最高のゴスペルである点に間違いはありません。
 そうでないのならば、「ゴスペルを歌っている黒人たちのゴスペルじゃないポップスが好き」と言えばいいのですから。

 神様を目線の後ろに感じることができた音楽は、ぼくにとっては競い合う技能でもなければ、誰かが中心でもない、ただ、ひとりひとりが純粋に神に駆け寄り、まるで小さな子どもが親に「えーとね、今日ね・・・」って今日あった楽しいことを伝えたりしているのと同じような感覚を呼び起こされ、それぞれの違いや個性もすべてを受け入れてくれる神と自分たちとの繋がりを表現していると思わされました。

 こうなっちゃうと、なんかバカバカしいくらいに音楽の強い発信意義があって、伝わるものも大きくて、個人のプライドとかそんなものどうでもよくなっちゃうわけで、ゴスペルの感動を中心ではなくて周囲的なこと(技術とか表現力とか経験知識とか)で諮ろうとすることに目が向くことはその音楽の神髄を理解できない脚色に頼る人間の出来の悪さ・・・、ということに気づいてしまうわけで、「脚色や技術の本物らしさ」の中では優劣の勝負となっても、「本質の本物の意義」の前では比較する対象にすらならないと感じました。

 いゃ~、言葉が汚くて申し訳ありませんが、ぼく的には意義としての本物が脚色の本物風に勝ると感じるのは当然だと感じたということで、それはそのまま自分への反省に帰って来ちゃうわけです。

 ここのところ、9月末で定年退職となって、それ以後の低報酬での再雇用では、音楽活動を続けて行くことは困難かもしれない・・・等と感じ、どうやってだんだんにフェイドアウトして音楽を辞めていくか・・・ばかりをイメージしていました。

 なぜ、そんなことを思うのか・・・。
 それは、ちゃんと「ぼくは一生懸命演奏しているよね?」と神様に向き合っていない演奏をしているからで、「今度もライブに来てくれる人が居なかった」とか、「ここで音楽を辞めても、本心から見たかったと思ってくれる人はいないので問題ないだろう」とか、意義を見出せなくなっているのではないかと思います。

 ぼくにとって「神様に向き合う」っていう行為はゴスペルの人たちのように強いものではなくて、隣りに居てくれる第三者で「これでいいんだよね?」という言葉に相槌を打ってくれる存在かなと思います。
 結局、自分の問いに自分で答えているだけかもしれないけれど、絶対的な愛という存在への確認(人間的ズルさや欲のない、受けることを求めず与えることを正義とする性格への確認)をすることで、自分がどれだけズルくて欲だらけでダメな奴かを認識しつつ、それでも目的に向かおうとすることの自信・・・みたいなものかと思います。

 これから音楽を続けていけるのかどうかは自分が考えることではなく、自分は今できる限界で音楽を続ければいい・・・。
 今必要とされなかったとしても、自分の死後に必要とされることだってたまにはあるし、生きている証はぼくにとって音楽しかない。
 怒りや憎しみを吐き出してしまい、愛というオブラートで包みなおしてしまう音楽という優れものな世界に身を置き続けることができたらいいなと思いました。

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