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信念のようなもの(どうでもいい話)

2019/08/08 00:00

 (1)「自己満足で音楽をやる」というのと、(2)「自分も楽しみお客さんも楽しませる音楽をやる」というもの、(3)「自分は納得できずに不満だらけであってもお客様が喜ぶ音楽をやる」・・・という大まかに3つの内容で音楽を表現されることが多々あるように感じますし、事実、昔よく上の人から言われていました。

 ぼくは昔よく(2)「自分も楽しみお客さんも楽しませる音楽をやる」こそがすべてで、それ以外は容認できないと思っていて、上の方から仕事なんだから(3)「自分は納得できずに不満だらけであってもお客様が喜ぶ音楽をやる」がほとんどで、運が良ければ年に数回(2)の時もあるが、それは個人の好みの問題でそれを顔に出すべきではないと怒られたことがしばしばありました。
 しかし、いくら言われても(3)は音楽として全く魅力がないのでよほどの大金をいただく等が無い限りは避けたいと今も思っているので、だからぼくはダメだったのでしょうね。おまけに、音楽はコピーではなくてオリジナルであるべきと思ってしまっているところもありますから。

 それどころか、(1)「自己満足で音楽をやる」と(2)「自分も楽しみお客さんも楽しませる音楽をやる」は、ぼくの場合は同じなのではないか・・・、すなわち・・・

<1>「自分の喜びや悲しみの気持ちを音を通じて他人の心に伝達したい」・・・意見や意思のような強いものではなく気分の共有?
<2>「演奏することで他人が楽しそうになってくれることが喜び」・・・演奏する目的
<3>「他の誰かのマネではなく、自分なりのオリジナルな音楽表現を受け入れてほしい」・・・オリジナル(本物)でありたい
<4>「実体不明の夢ともいえる愛というもので他人とつながる道具として音楽があってほしい」・・・<1><2>の目標

 そんな4つ程度の望みが自己満足ポイントで、すべてが他人とのかかわりになっているため、極々個人的な「個人としての向学的な研究の一環」とか「個人の拠り所とする技術論理の証明」とかのような「お客様無しでも得られる自己満足」ではないわけです。
 そうすると必然的に自分個人の望むものが他人の望む(他人に望んで欲しい)ものとなるわけで、結果的に(1)(2)は主格が違うだけで同じものだと思いました。

 ただ1点、<3>の「オリジナルである」という点はこちらからのワガママではあると思いますが、他の<1><2><4>がご理解いただければ、当然、<3>も望んでいただけるはずです。
 たとえば、ローリングストーンズがローリングストーンズのオリジナル曲を演奏せずに、全曲ビートルズの曲をコピーして演奏するライブだった場合、ローリングストーンズのファンとしてはストーンズらしさはあまり見られず企画ものだったと感じてつまらなく思うのではないでしょうか。。。
 メジャー同士を例に挙げればわかってもらえる問題ですが、「マイナー=劣っている」と解釈してしまって人気と音楽内容を同等なレベルのものと勘違いする一部の業界人の考え方を強要しているだけで、その実、現行のメジャーを安定的に運営する気持ちが新しいものへの拒絶を生んでいるようにすら感じます。
 知っている曲が・・・という発想が正しいのならば、新曲がリリースされるメジャーよりも、街のカラオケ屋で誰かが歌っている有名曲を聴くことが望まれている・・・という恐ろしい考え方にもなってしまうでしょう。

 聴けば他の音楽と違う色を確実に発見できるバンドをやっている場合、「○○系」の証明を演奏で行って「その一派」を誇る必要はないと思います。プレイスタイルを一派にすり寄ることで大家の下に居るような政治家の会派的な安定を目指すのがロックだとは感じないし、それをハクとしてプレイヤーを論じる人々は、音楽とは別の団体意識的な安心感を求めているに過ぎないのではないかと個人的には感じてしまっているところもあります。
 ぼくの音楽も30秒でも聴けば他のバンドとの音の違いはハッキリわかると思うので、「マイナーなバンドは流行っているメジャーのコピーをして他人に聴いてもらえ」という発想は、まるで音楽を感性として理解できる能力が聴き手には無いとバカにしたような考え方に感じてしまうところもありますので、ぼくはNoです。
 出来ることであればライブにいらしていただいて、本当に音楽としてメジャーに全然劣っているのかを見て聴いて感じていただければと思います。(確かにエンターテイメント的にショーの規模やお金のかかった仕掛けでは敵うすべもありませんが・・・。)

 また、音楽というものは「音を楽しむもの」とよく言われますが、ぼくの感覚では「音」という生命体がうまれて、そいつがお客様とプレイヤーの間の空間で芝居をしているようなものだと感じており、プレイヤー・お客様双方からのパワーがかからないと芝居がなりたたないもののように感じています。
 だから、「音を楽しむ」ことは「音が楽しむ」ことにもなり、お客様とプレイヤーの共同作業で素晴らしいライブがうまれるのだと思っています。

 金儲けとして音楽をやっていませんが、そういった音による楽しみを味わいたいという気持ちから来る演奏は、大きくプロに劣るものだとは思っていません。

 また、オリジナルな音楽は知らない曲だから興味をもたれない・・・という勘違いは、ぼくたちのフリーマーケットライブ時代に「そうではない」と答えが出ていると考えています。特に小さなこどもたちは飛んだり跳ねたり、身体をゆすって聴いてくれました。ほぼ8割程度のこどもたちに理解してもらえていたと感じています。
 逆に音楽に造詣が深いはずの方々が、何系なのかとか、そのジャンルのコピーをした方が良いとか、こどもたちにわかることが理解できない方が多かったようです。

 音楽とは、一生懸命美形な他人の顔に似せて整形して流行のスタイルにお化粧で作った顔で、加工写真によってスリムにいじりながら、「ありのままの私を愛して」と言う女性のようなものでしょうか?
 まぁ、元の顔や体型を加工してみんなと同じ顔になって流行に乗る「没個性」こそが「ありのままの私」であれば、確かにありのままかもしれませんが・・・。それは「ありのままの私」ではなくて「若干ウソをついても変幻自在に改変して自分らしくない自分に飾りたい(他人の好みにあわせたグループの人になる)自分がいるという現実が私にはある」という事なのではないだろうかと思います。

 ぼくが単純に「ありのまま」という言葉を聞いた時に感じるものは、「TPOだとか空気だとか社会とかに縛られない小さな頃から変わることのない自分自身が魅力的で、なんの加工も無いスッピンの姿」すなわち、大人の衣を剥いだまるで3歳児の自分自身・・・と解釈しちゃいます。
 だからかな・・・女性らしい女性よりも、ややボーイッシュに見える女性の方が好きなのかもしれません。

 音楽の好みもたぶんやっぱり同じようなことが言えているのだろうと思います。
 オリジナル中心に活動できるのに「自分らしさを好きになる努力」をしないで虚飾の自分を演じることは、結果的にそれを気に入ったお客様にも虚飾であり続け、どんなにメジャーになったとしても本物にはなれないような気がします。
 いや、本物ってなんだ?ということもありますが、これはぼくにとっては大切なことで、生きていること(人生)というものは、自分探しの旅なのではないかと思っており、それはまさに「ディスカバー自分」なわけで、その向こうにあるのが人生に終わりを告げる時「自分とは何だったのか、自分の人生は他人に有意義なものをほんの少しでも作れたのか、自分の人生は本当に自分らしかったのか」等の結果が知りたいわけです。
 だから自然に会派でもグループでもなく、唯一無二な自分を求め続けるのかなと思います。

 もうすぐ60歳になり、定年退職後の再雇用で収入も半減し、音楽活動も余裕がなくなるため、バンド練習時の駐車料金程度をめざしてライブは投げ銭制をとったりしながらも縮小せざるを得ないかなと思いますが、理想に対する考え方は一生変わらないと思います。
 これからもよろしくお願いします。

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