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渋谷で活動したい理由

2017/07/20 00:00

 もう数日となりましたが、7月23日(日)18:00~、このユニットでは初の渋谷でのライブです。
井の頭線の改札に近い「マホガニー」というビルの4階にある小さなお店ですが、出来ることであれば、渋谷という良い場所でもありますので、今後、地元六角橋の”Sammy’s Hawaiian Cafe”同様に二つめの拠点場所にしていけたらいいなぁと目論んでいます。

 場となるマホガニーというお店はライブが通常行われる場所ではなく、フォーク弾き語りのオープンマイクを週1回やっているお店ですから、オープンマイクに比べて集客が見込めないブッキングライブは本来やっていないところ。。。
そんなところで無理やり45分のライブをやらせていただくわけですから、初回でお客様がガラガラで次に期待が出来ないようであると「BMWdの集客力ではブッキングライブは無理。」となってしまうわけで、とにかく集客結果を出して、お店のマスターの心象も良くして次のライブにつなげていきたい気持ちなんです。

 オープンマイク的な10~15分のライブというのがノルマやチャージ無しに設定された渋谷のお店では多いようですが、ぼくらは最低でも組曲1作品は演奏したいので、組曲は45分程度ないと演奏できませんから、オープンマイク的なもの(および45分未満のライブ)には出演できません。

 さて、なぜ渋谷でのライブにこだわるのか・・・ですが、まず、地元の東横線「白楽」駅からそのまま東横線で行ける東京の大きな街である点、それはぼくらが拠点とする東横線「白楽」駅そば”Sammy’s Hawaiian Café”と渋谷マホガニーを二つめの拠点に出来れば双方をお客様も共有可能なスペースに・・・渋谷から白楽(六角橋商店街)へという人の流れ(またはその逆)を作れるチャンスがあるかもしれないという夢の実現が一つめの理由です。
 二つめの理由は、遠い遠い30年以上昔の話になりますが、大学時代からその2年くらい後まで、ぼくの音楽活動の場は渋谷で、今は無きヤマハのエピキュラス、それにエッグマンが主でした。
 エピキュラスから出てイーストウエストの東京代表となり、中野サンプラザの本選までは行かせてもらいました。(ギタリスト賞とドラマー賞はいただいたのですが・・・、優勝は友人の居たカンガルーというバンドでした・・・)
あの当時のエッグマンのライブでは、爆風スランプになる前の爆風ガンとか、その後に超メジャーになっていく様々な方々とのジョイントが多かったし(逆にいうと、ダメだったのってぼくたちだけだったかもしれないけど・・・)、そんな具合で渋谷は良い思い出の場所でもありました。

 楽器店も当時は渋谷にPACOというお店があり、ほぼ毎週のように通っていました。
 仲の良かった友人たちが横浜で活動する中、ぼくは半ば横浜を離れて渋谷を中心に音楽活動をしていたのですね・・・。

 さて、いろいろ書きましたが本当の理由は違うところ、ぼくの記憶のようなものにありまして、それを説明したいと思います。
 ぼくは横浜に住んでいますが、幼少期には世田谷に住んでいました。一番近い街は下北沢でしたから、比較的渋谷には近い距離ですね。1台の三輪車に二人で乗っかり、家の前の当時は都電が走っていた世田谷通りを走って渋谷駅まで行ってお巡りさんにパトカーで家まで送ってもらったこともありました。
 当時の渋谷は、ぼくにとって「木馬座のお芝居を見に行く場所」でした。

 人様はいろいろなミュージシャンに刺激されて音楽・ステージ・指向などを決定していると思いますが、1993年以後のぼくには、それがあまりありません・・・。
 時代とか、時期とか、流行りとか、憧れるプレイとか、そんな時間の中で注目してきたものではなく、幼年期の嗜好に考えが戻っている・・・、そう、人は老齢になると幼児に戻っていくと言いますから、まさにぼくにそれが始まっているのかもしれません。いえ、厳密にはそれが始まったのは30歳の時からで、その時から組曲構成のオリジナル曲を主としています。

 自分をとりまく社会という環境はあると思いますが、それも今のように右に偏った世界ではなく、世田谷通りを全学連が「安保反対」の声をあげて行進していた時代が左右バランスのとれた良い時代だったと個人的には感じています。うむ、そういうことではないのかもしれません。小さな子どもだったからか、全学連のおねーさんたちに抱っこされて一緒に行進しながら遊んでもらってたし、楽しい思い出しかないんですわ。

 そんな時期の渋谷で見た木馬座(「ピーターパン」「オズの魔法使い」「5月35日」「青い鳥」等)は、藤城清治さんの影絵の世界が実際のものとなり、魔法陣の素晴らしい照明が織りなす美しい妖精世界の光景とひとつになる・・・まだカラーテレビの無い時代ですから、その美しさは想像を絶するもの凄さだったわけで、おまけにクルマ好き幼児だったぼくにとってトドメは、のちにケロヨンと呼ばれる「ヒキガエルの冒険」でカエルくんがジャガーEタイプに乗って登場しちゃうんですからもうたまりませんでした。
 だいたいにして、自分が歌詞を覚えてちゃんと歌った歌って「自動車マニアのヒキガエル~、ハンドル握ってハイ、オーライ・・・」かもしれないし。。。

 今、ぼくらの音楽を表現する時に「紙芝居に音楽がついたようなもの」とか、「何系のロックですか?」という質問には「ジブリ系のロックです。」というふうに答えていますが、本当はぼくの心の中では少し違っていて、「ジブリ系」は女の子の絵柄から来る昭和初期的なイメージが美妃の雰囲気に近くイメージしているのでそう言っていますが、ぼく自身の心に描いた音楽イメージは1993年から一貫して「木馬座の世界を油絵に描いたような紙芝居(絵本)の一部として流れる音楽」です。

 木馬座といえば照明の魔法陣、魔法陣といえばカルメンマキ&オズでしたね。オズのステージ照明は木馬座らしくってとても良いなと高校生の頃思っていました。

 1993年以後、ぼくはあまり音楽を聴かなくなりました。1989年までは常にどこでも音楽を流しっぱなしだったのに・・・。

 1990~1993年の間は音楽をやめ、ギターにもまったく触らず、音楽も一切聴きませんでした。
 1993年の夏の終わりか秋だったか・・・、たまたま銀座の画廊で目にした大木の穴から見える森の中の泉か池かを描いた油絵が気になったのが、また音楽をはじめるきっかけでした。
 音楽に未練を残してグズグズ人生を生きるのはやめて、家族のために良いサラリーマンにならなければと思って3年近く我慢していたのですが、油絵を見て「音楽は諦めるから趣味で絵とか描けないかなぁ」とか考えているうちに、どんどん1枚の見た絵からストーリーが浮かんでしまって、それに曲をつけたくなってしまったのでした。
 それ以来、音楽に影響を受けた音楽でなく、常にイメージは「藤城清治の影絵が油絵になったような光の絵本(紙芝居)」みたいな感覚を頭に描いて曲を作っています。

 だからぼくにとって渋谷は、そんな木馬座の原点であり発想の源のような気がしますから、今、地元である横浜の下町・六角橋とともに重要な位置を占める「半世紀前の渋谷」であって・・・、そうですね、ぼくにとって東横線はタイムマシンで、現在の六角橋(白楽駅)からタイムマシンに乗って50年以上前の渋谷に行って演奏してくる・・・というか、見た目は逆のナウな渋谷と古い下町商店街の六角橋ですから、逆だろうと思われましょうが、ぼくの心の目に見える世界はそんな感じなので、タイムマシンでぼくの幼年期・木馬座全盛期の夢を感じたい街なんです。
 まだクルマもまばらで、都電が走っている渋谷。。。六角橋にも市電が走っていました。
 そしてぼくは渋谷の駅に着くと、心の中でそっと挨拶します。みんな元気?ケロヨーン!
それが渋谷で演奏したい理由です。

 7/23だけでなく、その後も渋谷で活動させていただきたく、ご来場お待ちしています。

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